フラットアースってどうなの?
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・それを世に出した結果、思考実験と現実の区別を付けられない頭の悪い人が一定割合発生した
・頭の悪い人に嘘の情報を吹き込んで扇動すれば金になる事に気づいた人が商業化した
いわゆる宇宙ビジネスってやつだね
世界の真実に
そう地球はフラットなのです
南極に覆われ天井にはドームがあり
南極の先には未知の大陸があるのです
こっちのがロマンがある(*´・ω・)
一番アホだと思うのは、自転と一緒に大気も周っているという話。
凄いスピードで飛んでいる飛行機も自転にお付き合いしてるらしい(笑)
慣性の法則を理解できないフラットアーサーって
気の毒ですね
だから重力は重力加速度と言う
実は説明できていないことを立証する観点としては優れている
だから、これに満たない質量の天体、例えば小惑星は球形ではなく凸凹している
まあ、厳密には自転による遠心力でわずかに楕円になってるわけだけど
www
電波が長距離飛ばない理由が途中にある障害物だからな
スマホに内蔵できるアンテナで何キロ間隔で設置されてる基地局にも高品質通信できる
減衰しても補正できる低速のアナログ通信を指向性高(拡散しにくい)くて大きい
パラボラアンテナで電力上げてやれば数万倍は余裕で行けるんじゃないか?
実際アマチュア無線の人は数百キロ離れた相手と通信することもできるらしいから専門施設ならその数百から千倍くらいはいけるでしょ
国際宇宙ステーションがホログラムだとしたら電波は誰が出してるんだろう?
アマチュア側が指向性の高いアンテナ使ってたらステーションがあるはず以外の違う方向から飛んできたら即バレるないか?
スカイツリー展望台450mからは4404mの水平線までしか見えない
(ヾノ・∀・`)ナイナイ
実例は幾つもあるんだけどさ、フラットさんがそれをどうやって説明してくれるのかが楽しみだ。
わかりやすい例で言えば、アムンゼン隊とスコット隊は全く違う場所から出発しているんだが、同じ場所に到達してるんだ。
続けて欲しい
人間の想像力はイダイだ
地球もまた諸天体同様に運動し球体だと地動説は主張する
対象に否定関係が実在したら対象は理解不能という科学成立根拠を明かす第一歩ではないかと
見たものがそのままの自然ではないということにわたしたちは気が付く
進化論も人間は諸生物の仲間ということ
植物も金属も水も物理として差異でしかなく否定関係ではなく同一
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止はどこにもないことを示す
自然の存在形態は運動ということは量子力学の自然は運動するエネルギーの濃淡を裏付ける
運動が前提ならば有と無という否定関係は導けない
ディラックの海は無、真空はエネルギーの基底状態ということ
無が〈有〉ったら無にならない
この原理は自然が無矛盾であり理解可能だと証明する
多種多様な物理存在は運動するエネルギーの濃淡の親和反発してまた違う濃淡を生成する過程の産物なのだと自然科学は示す
この自然観は進化論しかないことを裏付ける
生死は物理としては存在しない
生まれるというのは物理状態の変化、遷移であり死もまた同様であり否定関係ではない
科学者はここから死と特定困難と語るが物理として実在しないのだから当然ではないかと
無は有の一形態
静止は運動の一形態
静止、生死、無は認識には存在するが自然には存在しない
自然科学は認識の在り方を相対化してきた歴史でもある
自然科学は自然認識だから認識の在り方もまた考察されるべきだというのがわたしの理解
しかし物理としては否定関係ではない
わたしは産まれてから現在まで、いやこの今も物理として同一ではあるが同一の〈わたし〉
非同一を同一で規定する
運動は静止で規定される
ウイルスは生物非生物と分類困難だが物理として生物非生物は否定関係でなく差異
分類困難なのは分類するからということ
様々な理解困難な対象が自然には存在するがそれは規定するからではないのかということ
ウイルス自身はおれはどっちだと悩まない
自然もまた
つまりあくまでも認識規定するからでしかないのだと
運動を静止で、つまり有を無で規定する
0に限りなく近いが0では無いという奇妙な規定の根拠
測定値は近似値でしかないということになる
エネルギー保存則の破れが言われるがもともと=ではなく≒だし自然以外実在しない
何処に消え、何処からということは在り得ない
観測問題は粒子は波の渦の状態、つまり粒子は波の一形態ということになる
わたしたちが認識する自然は認識器官の在り方に結ぶ像でありそのままの自然ではない
静止、生死、無は自然には実在しない
否定関係の実在は無いと明かしてきたのが科学だとわたしは理解している
地動説は視点を変えてはいるが視覚という範囲での真理であることには変わりがない
どこから地球でどこから非地球と指示はできないとわたしは理解している
座標原点は実在しないのだから
生死が特定できないように物理として球体は存在しないのではないかと
生物と規定して理解してもそれは相対的でしかない
非生物も同様であり相互転換して流動的で相対的
此処からは実在しないが此処からで理解する
自然はエネルギーの濃淡の海だが淡は認識器官に像を結ばず多として像を結ぶ
形は認識器官の在り方に結ぶ像でありそのままの自然ではないのでは?
生物と理解して良いしそれでいろいろ理解可能だが絶対ではなく相対である様に球体説も相対的な理解では無いのかというのがわたしの理解
形で規定するが形は自然には実在しないのではないかと
静止、生死、無は認識器官に結ぶ像であり自然には存在しないが、それらで規定する
形もまたそうなのではないかと
自己言及もまた考察されるべきかと
座標原点、静止で運動を規定するが静止は実在しないのだと
そして静止が実在しないことで自然が無矛盾であることを示す
規定が実在しないことにより自然が無矛盾であるのだと
規定は否定だから対象には実在しないのは当然ではないでしょうか
此処からの実在は否定されている
形で規定するが形は実在しない
静止、生死、無、此処からで理解するがそれらは実在しないのだと
認識器官に結ぶ像がそのままの自然ならば諸生物の認識器官の在り方は多様だからその数だけ自然は存在することになる
認識の在り方を考察すべきではないでしょうか
認識器官も自然が生成したものです
ただその認識自体も相対化しうるのではということです
それは食材が様々な料理法により形態を変えるのと似ている
認識器官に結ぶ像は様々だが対象は同一
静止、生死、無は自然には存在しないが認識には存在する
此処からが実在しないのなら形は実在しない
静止、生死、無、終始で規定するがそれは実在しない
形で規定するが形は実在しないのでは
此処からが地球、此処からは非地球と厳密には規定できない
生死は此処からと規定できないように
それらは物理として実在しないのだから
自然認識は自己を他として認識する
一を多で認識するということでは一貫している
自然は無矛盾でなければ理解出来ない
有を無で規定する
双方認識に結ぶ像であり、認識の立場を相対化してはいないということではフラットアース説も球体説も同一では無いのかということです
自然に形が在るという理解は光速度一定の原理は絶対座標の実在を否定してるのだからありえない
形で規定するが形は実在しないのだということです
静止、生死、無、此処からで規定しますが実在しません
形は此処からが前提ですが実在しません
双方認識に結ぶ像であり、認識の立場を相対化してはいないということではフラットアース説も球体説も同一では無いのかということです
自然に形が在るという理解は光速度一定の原理は絶対座標の実在を否定してるのだからありえない
形で規定するが形は実在しないのだということです
静止、生死、無、此処からで規定しますが実在しません
形は此処からが前提ですが実在しません
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